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第74回平和祈念資料館問題(7)   戦争マラリアも改ざん/実相伝える記述、大幅削除

  • 執筆者の写真: 世界版「平和の礎」事務局
    世界版「平和の礎」事務局
  • 9月27日
  • 読了時間: 5分

- 以下、引用元「石原昌家著「沈黙に向き合うー沖縄戦聞き取り47年」P156~157

 筆者は、ゼミ学生たちと波照間島で戦争マラリア被害の全集落調査を実施する前、聞き取り調査を実施した。砲煙弾雨の沖縄本島中南部の戦場とは異次元の戦争マラリアの恐ろしさを知った。1人の日本軍人の命令により、マラリア無感染地波照間島住民が戦争マラリアに罹患し、生き地獄化した。死者が続出するなか、罹患しながらも遺体を運びさせる体力のある人は、1日に6人も死臭漂う病死者を運び出した。ウジ虫が遺体を食べつくし、病床で白骨になった時点で運び出した、と女性が身の毛もよだつ証言をした。その八重山の戦争マラリア資料館でも、「実相隠し」をしたので、石垣のマラリア遺族が「侮辱している」という新聞報道には唖然となった。


 第73回記事で1999年9月18日に平和祈念資料館問題の「緊急シンポジウム」が開かれたことを述べてきた。あふれんばかりの会場の熱気も伝えたので、その問題がどれほど沖縄社会で強い関心の的になっていたか、当時を知らない読者にも想像できたはずである。

 22年前(2021年現在)の出来事なので、20代、30代の若い教師の皆さんには、まったく知らない沖縄戦体験の改ざん事件ということで、後輩教員に沖縄戦体験を伝えている退職教員グループが、まだ連載途中にもかかわらず、この問題の学習会を企画し、その講師に私は依頼されることになった。戦後76年目ということで、戦争の記憶の継承に危機感を抱いている人たちが存在していることを、本連載によって私は具体的に知ることになった。


■時の為政者次第

 そもそも沖縄戦体験のねつ造・曲解は、戦後12年目の1957年、日本政府が軍人軍属対象の戦傷病者戦没者遺族等援護法を、ゼロ歳児を含む沖縄の戦争被害住民に適用を拡大していった時点から大がかりに始まったのだ。

 その法の適用をうけたい(申請主義)遺族は、米軍支配下の琉球政府とともに日本政府の「沖縄戦体験のねつ造の仕組み」に、経済的理由で取り込まれざるを得なかった。遺族が「戦闘参加者についての申立書」を申請したからといって、誰にもとがめられるものではない。

 だが、その仕組みは、いまなお機能しているので、沖縄戦体験が、「構造的」にねつ造・曲解の危機にさらされたままだという事実を私たちはしかと共有しなければならない。現在、本連載中の平和祈念資料館展示変更問題も、時の為政者次第では今後、いつでも起きうると、「恒常的注意力」を持続しておく必要がある。そのことを新たに指摘しておきたい。

 その上で、引き続き、史実改ざん問題がどのような経緯をたどったかを跡づけていく。ところで、1999年5月に開館していた八重山平和祈念館(戦争マラリア資料館で平和祈念資料館の分館の位置づけ)でも同様な問題が起きていたことを新聞記者が明るみに出した。私は両資料館づくりに関わっていたので、同時並行的にそれらの問題点を確認しておきたい。


■歴史歪曲再び

 1999年8月31日の琉球新報朝刊、21面トップに〈「実相隠し」石垣でも/マラリア資料館写真説明変えて展示/監修委員から反発〉という見出しで、八重山平和祈念館の展示無断変更問題を報じた。

 沖縄タイムスも同日夕刊5面で〈八重山平和資料館展示見直し/歴史なぜ曲げる/マラリア遺族「侮辱している」〉という見出しのもと、〈県の新平和祈念資料館の展示内容が一部変更された問題に続き、八重山平和祈念館でも同様にかえられていたことに対し、関係者は怒りと疑問の声を上げた〉と、両紙が一斉に報じ始めた。

 その具体的内容について、八重山平和祈念館の監修委員会の会長をしていた私でさえ、まったく知らない事柄を両紙の記者は取材していたようだ。以後、〈恒常的注意力を持続〉してこなかった私の姿を浮き彫りにするような記事を両紙が掲載している。連載執筆している今、新たに両紙に目を通しながら、猛省している。両紙の第一報以後、しばらく私は沖縄を離れていた。戻ってくるまでの動きは新聞情報に拠った。

 八重山平和祈念館は、監修委員会(石原昌家会長)とはべつに直接展示に関わる専門員がシンクタンク(業者)と最終作業を行っていた。それ以後について、私がまったく知らなかったことを同年9月12日、琉球新報朝刊が1面トップ記事で報じている。

 〈八重山平和祈念館 県が説明文大幅変更/朝鮮人、住民の動員削除/「歴史改ざん」との指摘も/かすむマラリアの悲劇〉という大見出しのもと、〈「戦争マラリア」の実相を伝えるため、今年(1999年)5月に開館した八重山平和祈念館の展示写真や図画の説明文について、県文化国際局が専門委員や監修委員への相談なしに、行政内部で大幅に削除や差し替えをしていたことが十一日までに琉球新報社の調べで分かった〉〈専門委員として写真説明を手掛けた保坂広志琉球大学教授は変更をまったく知らされていなかった〉との記事とともに、〈八重山平和祈念館展示写真説明文の主な変更内容〉という一覧表を載せている。

 〈展示の基本理念を決めた監修委員会(二月末に解散)の方針に沿って作業が進められた。写真説明は専門委員の保坂教授が監修委員の意見、基本計画、西表島での現地調査、沖縄戦と戦争マラリアの歴史的事実を踏まえて文章を練り上げた。保坂教授の説明文は四月四日までに完成し、展示工事業者から県側に提案されている〉という経過を経た後、担当部局課が勝手に変更し、その最終案について石川秀雄副知事が文化国際局から説明を受けて了承している。

 それを基に〈業者は説明文の作成に着手している。その際、県側から保坂教授への変更説明は一切なかった。保坂教授は県平和祈念資料館の展示変更問題が表面化したのを受け、今月に入って自身が作成した説明文と祈念館に展示された説明文を点検した。その結果、大幅な削除や差し替えの事実が判明した〉という。監修委員会の会長だった私もその経過を全く知らなかったということである。


■副知事らと面談へ

 10日ほど留守にした沖縄へもどるや否や、すでに元監修委員、元専門委員、石川副知事、金城勝子文化国際局長との面談が準備されていた。それは9月17日ということだったので、「緊急シンポジウム」の前日という慌ただしさだった。私にとっては、再び連日資料館問題に明け暮れする日々が続くことになった。


- 以上、引用元「石原昌家著「沈黙に向き合うー沖縄戦聞き取り47年」P156~P157



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