top of page

第73回平和祈念資料館問題(6)   改ざんは証言の抹殺/沖縄戦体験者「事実継承」訴え

  • 執筆者の写真: 世界版「平和の礎」事務局
    世界版「平和の礎」事務局
  • 9月17日
  • 読了時間: 7分

更新日:9月27日



 こんにちは。世界版平和の礎を提案する会事務局です。

 前回に引き続き、沖縄戦 沈黙に向き合う より「平和祈念資料館問題」を取り上げます。中略する(4)、(5)では、そもそも沖縄県の平和祈念資料館が何をメインにして展示してきたか。またその時代の背景を当時の新聞記事と併せて詳細に記してくれています。

 何をメインにして展示 ― 沖縄戦を考える会(運営委員10人)は、「鉄の暴風」と形容される沖縄戦の実相を伝えるには資料館としては異例の「物」資料ではなく、住民の体験「証言」をメインに展示する方針を熟慮の結果、決定した。1970年代から沖縄県は住民から聞き取りを行い、集めた証言資料を沖縄県史として発行してきた。運営委員のメンバーたちはその県史を中心に、採用したい証言内容を各々提案するという方式を採った。採否を決める際にはその凄惨の内容に何度か声をつまらせ朗読する場面もあった。

 ときは、1994年4月以降 ― 97年日米防衛協力のための指針(新ガイドライン)にもとづく周辺事態法、「沖縄弾圧法」とよばれた駐留軍用地特別措置法の再改定、国旗・国家法(日の丸・。君が代を国旗・国家とする法)、通信傍受法、住民基本台帳法改正(住基ネット)等の重要法案が2か月で一気に成立した。戦後日本が「戦争できる国」へと、小渕恵三内閣が国防政策を大転換し始めていた。歴史修正主義の教科書記述で、沖縄戦は「軍民一体の戦闘」であり、住民は勇敢にたたかった「日本人の鑑」とたたえ始めていた。


 委員たちの想いとは裏腹に、展示内容は県の上層部によって「18項目」が展示内容を無断で変更されていた。監修委員の筆者も新聞記事によって初めて知る内容であった。沖縄地元二社の記者は、自社がこれまで総力をあげて、沖縄戦体験の証言を記録してきたのは、沖縄戦の真実を読者に提供し、二度と沖縄が戦争に巻き込まれないようにという執念で取材してきたからである。地元新聞両社は、それぞれの取材ルートで監修委員が知らない改ざん内容を入手できたようだ。両紙の報道で知った県民世論の真実を求める声が大きなうねりとなった。

- 以下、引用元「石原昌家著「沈黙に向き合うー沖縄戦聞き取り47年」P154~155


第70回平和祈念資料館問題(6) 

  

改ざんは証言の抹殺/沖縄戦体験者「事実継承」訴え


 沖縄県民は、ことばに言い表せないほどの凄惨な沖縄戦体験を強いられ、苦痛の歴史を背負って生きてきた。したがって、その歴史的体験をねじ曲げる沖縄県上層部への怒りは、新聞投稿欄にも表出されていた。そのような中で1999年9月18日、「沖縄戦の真実をどう語り伝えるか」と、緊急シンポジウムが開催された。聴衆からは、日本兵の住民虐殺の現場を目撃した証言が飛び出したり、会場は熱気に包まれた。日本兵の住民虐殺を「反日的であってはならない」という県上層部に対して、参加者は当時の日本兵の悪業と二重写しにみえているようだった。


 日本の有権者は、1970年代「国民総背番号制(住基ネット)」1本さえ成立させなかった。それから30年後の有権者は日本の針路を左右する数々の重要法案を自民党の小渕恵三内閣のもとで、あっという間に成立を許した。日本の国の姿が大転換されつつあるとき、国民は国会審議にどれほどの関心を向けていたのだろうか。


■国民を「誘導」

 1999年4月ごろから8月ごろまで、テレビのワイドショーや週刊誌は「サッチー・ミッチー騒動」(野球の野村克也監督の妻沙知代=サッチーと女剣劇浅香光代=ミッチーとの間の非難合戦)で、世の関心を集めていた。国会議員にもなった秦野章元警視総監の「この程度の国民なら、この程度の政治ですよ」という有名なセリフがしきりに頭をかすめた。

 メディアの多くが重要法案の国会審議をそっちのけに国民の関心を「騒動」に「誘導」しているように見えた。週刊誌「サンデー毎日」が南里空海さん(大田昌秀と池澤夏樹の対談集『沖縄からはじまる』<集英社>の編集に関わった)へ、この騒動のインタビューを私に依頼した。最後に「この騒動はいつまで続くと思いますか」と問うた。「この井戸端会議のような騒動にテレビは電波ジャックされているが、国旗・国家法が成立したころには下火になるでしょう」と私は応じた。その記事を読んだ野村克也監督が「石原という人の言うとおりだ」とつぶやいていたということは、南里さんが伝えてきた。

 一方、沖縄では歴史上未曾有の戦争の惨禍を報じてきた沖縄メディアの報道力によって、沖縄戦の真実をねつ造する稲嶺県政に世論の怒りは絶頂に達していた。


■緊急シンポ

 琉球新報社による県への取材の発端をつくった沖縄戦1フィールの会、沖縄平和ネットワーク、県歴史教育者協議会が再び行動を起こした。「沖縄戦の真実をどう語り伝えるか 新県平和祈念資料館問題緊急シンポジウム」を9月18日午後、那覇市の八汐荘で開催した。人々の関心の的となっているテーマだったので、あふれんばかりの参加者で会場は熱気むんむんだったことを覚えている。私たち監修委員を代表して、宮城悦二郎新資料館監修委員会長代行が出席することにした。その場の雰囲気とシンポの内容を琉球新報は、9月19日朝刊の4面にわたって、それぞれトップ記事で大々的に報じている。会場には開会目前の県議会議員、県関係者や私たち新資料館の監修委員、沖縄戦研究者、一般市民ら約300人がつめかけた。

 シンポジウムは、第1部で新資料館の経過説明や八重山平和祈念館の現状と問題などの報告、第2部で戦争体験者や沖縄戦研究者ら参加者からの意見発表。最後に(1)展示内容の変更作業の事実経過、展示内容の公開 (2)新資料館の独立性や活動を保障する条例制定や専門員の配置 (3)八重山平和祈念館の展示説明文削除の差し戻し (4)監修委員の任期を開館までとしること―を県に求める決議書を了承した。

 それぞれの報告内容は同日の琉球新報が以下のように報じている。

 第1部では、宮城悦二郎新資料館監修委員会長代行が<平和祈念資料館の経緯>と題して<県から(1)米国が実施した諸政策(2)国連役割を追加展示するよう提案があったことを報告。米国の諸政策について「米国が住民のために良い政策をしたということは政策の一面を見ているにすぎない。裏に効果的に軍事基地を維持する目的があった」とし、あくまでも軍事優先だった前提を踏まえることが追加条件であることを主張した>

 潮平正道八重山平和祈念館監修委員は、<八重山平和祈念館の現状と問題点>と題し、<慰藉事業のマラリア犠牲者慰霊日でも戦争マラリア援護会が刻むよう求めた「軍名により」という言葉を国、県が「作戦上の都合により」としたとし「今回の問題に共通する流れは以前からあった」と話した>

 中山良彦博物館展示総合プロデューサーは<平和祈念資料館はどうあらねばならないか>と題し、「戦争と平和を扱った外国の四資料館の現状を報告したうえで、新資料館のあり方として「沖縄戦の実情から語るべきで、日本から見た戦争を語るべきではない。原爆の広島、長崎と同様に沖縄には沖縄の戦争を語る特殊性がある」」と強調した。

 安仁屋政昭沖縄国際大学教授は<歴史修正主義の動向と沖縄戦研究>と題し、<沖縄戦の特徴として「国体護持」を挙げ、「戦争の事実と原因を科学的に認識し、民衆の被害体験を明らかにし、誰が被害をもたらしたか、元凶を告発する強い姿勢が求められる。そうでなければ平和資料館のねじ曲げがまかり通ってしまう」と指摘した。>


■会場包む目撃証言

 第2部では、戦争体験者や監修委員らの参加者が意見発表を行った。

 2020年11月12日、40年間戦争体験の語り部を務め、99歳の生涯を閉じた安里要江さんは、轟の壕に入った3日目に〈日本兵が着剣した銃を突きつけ「子供を泣かすと殺してやるぞ」と脅された〉と、まさにガマ内展示の日本兵の姿を証言した。さらに、〈「私にも言わせてください」と勢いよく手を挙げたのは仲程シゲ子さん(70)=南風原町。自分の体験を描いた絵を掲げて「六月二十三日に摩文仁に追い込まれた。避難民であふれていた。そこで一人の青年が「捕虜になろう」と呼び掛けた。従おうとすると突然、日本兵が飛び出し、青年の首を切った。あの青年の苦しみ、痛み、悲しみをどうするのか。事実を残し伝えることが資料館の意義だ」と早口でまくしたてた〉(同日社会面)

 このような悲痛な思いで語る証言を抹殺しようとしてきた県幹部の悪業は、聴衆には証言者の語る日本兵の姿と二重写しに見えているようだった。


- 以上、引用元「石原昌家著「沈黙に向き合うー沖縄戦聞き取り47年」P154~P155


次回に続きます。実相を伝えようとしない県当局に対し、遺族会の怒りは頂点へ…

当ブログをお読みいただきありがとうございます。




コメント


bottom of page