top of page

第41回「集団自決」の定義     住民は強制集団死/軍の自決と明確に区別

  • 執筆者の写真: 世界版「平和の礎」事務局
    世界版「平和の礎」事務局
  • 9 分前
  • 読了時間: 5分



- 以下、引用元「石原昌家著「沈黙に向き合うー沖縄戦聞き取り47年」P88~P89


第41回「集団自決」の定義


住民は強制集団死/軍の自決と明確に区別



 1983年に日本政府が家永氏に教科書の沖縄戦記述に「集団自決」(殉国死)を書くように指示したとこは、「意図せざる結果」として、全国に沖縄戦の実相を知らしめる契機になった。

 私自身も住民虐殺と「集団自決」が沖縄戦での被害住民の特徴だと述べていたので、その表現の仕方をあらため、沖縄戦体験の認識を深める機会を与えられることになった。

 まず、国が使っている「集団自決」という言葉の意味を調べることにした。それは、防衛庁防衛研修所戦史部(現・防衛省)が著した戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』(朝雲新聞社、1968年)に見つけることができた。「慶良間列島の悲劇集団自決」の項目の中で「小学生、婦女子までも戦闘に協力し、軍と一体となって父祖の地を守ろうとし、戦闘に寄与できない者は小離島の避難する場所もなく、戦闘員の煩累を絶つため崇高な犠牲的精神により自らの命を絶つ者も生じた」[252項]とある。ここで「戦闘員の煩累…自らの命を絶つ者」までの既述は、政府の「集団自決」の定義といえよう。それはまさしく、国のいう「集団自決」とは「殉国死」「自発的死」ということだ。それはのちにこの裁判の国側証人の曽野綾子氏証言で具体的に示されていく。

 

■歴史的証人尋問

 これらの点を念頭に入れて、国のいう「集団自決」に特化して、出張法廷2日目の安仁屋正政昭証人に対する主尋問の肝要部分のやりとりをピンポイントでみていきたい。しかし、安仁屋氏や大田昌秀氏、金城重明氏、山川宗秀氏それぞれの意見書、尋問内容をいま読み直していくと、控訴審(第二審)の証人を引き受けたものとしては、新たにつけ加える事柄はわずかしかなかったといえる程、充実した内容に、深く感銘を受けている。

 沖縄出張法廷は、一般の傍聴はできず、原告証人の補佐人として君島和彦市、直木考次郎氏、田港朝昭市、平良宗潤市、大城実氏、保坂廣志市の6名が全国の支援者を代表して入廷できた。法廷での主尋問と反対尋問は教科書検定訴訟を支援する全国連絡会編『家永・教科書裁判 第3次訴訟 地裁編第5巻 沖縄戦の実相』(1990年11月発行 ロング出版)ですべてを知ることができる。

 

■決定的な証言

「問92 

 参考のためにお伺いしますけれども、自決という言葉は、どういう意味の言葉なんです か。

 答 

 私が解説するんじゃなくて、日本語として日本国民の共通認識ということでいうと、いわゆる国語辞典的に言いますと、自決というのは、自ら決意して責めを追って命を絶つというふうに日本国民の日本語として共通認識があると思います。

 問93

 そうすると、自発性というか任意性というか、そういうものを含んでいるように理解されるものなんですか。

 答 

 そうすべきだと思います。

 問94 

 証人自身は、その集団的な殺し合いを集団自決という四文字で表現することについてどういうふうにお考えですか。

 答 

 極めて疑問に思っております。これは天皇の軍隊の、例えば牛島司令官や長勇参謀らの自決というものとは明確に区分しなければいけないと思います。なぜならば、この住民の集団的な死は、強制され、あるいは追い詰められたものであって、自らの意思によるものではないとそういう意味で言いますと、これらを集団自決と表現することは不適切であります。不適切であるばかりか、その住民の集団的なしを正しく伝えることを妨げ、誤解と混乱を招くと、こういうふうに思っております。」[153項]

 この一問一答の尋問は、322回まで続いている。ここで集団自決おいうのは、軍人が自決したときに使える言葉であることだと証言している。他の個所での説明を含めると、住民には集団自決というのはなく、軍の指導、誘導、説得、強制、命令などによる集団的な死、殺し合いだと証言し、軍人の集団自決は明確に区別すべきだと証言している。

 この段階で、沖縄戦体験研究の深化の到達点が示された。1988年2月10日の那覇地裁の法廷の場だ。

 

■私の悔恨

 ところで1991年10月21日、私が第1審の安仁屋氏証言を受け、第2審東京高裁での証人尋問を終えると、その足で傍聴できなかった全国から参集した約200名の支援者を前にした報告集会が開かれた。そのときのことである。沖縄から駆けつけて傍聴できた安仁屋氏に「なぜ、住民に集団自決なるものは無かったと、はっきり証言しなかったのだ」と、私は集会の場で叱責された。

 実は、東京高裁の開廷前に安仁屋氏の証言を受け、もはや、住民に集団自決という表現は使えないという認識に私も到達した段階で、それに変わることを模索しだした。すると、私の担当弁護士たちとの最後の打ち合わせ会議の席上、突然、弁護士から「裁判というのは、その提訴されたときの学界の状況で問答するものだから、提訴された1984年段階で石原さんは『集団自決』という言葉を使っているので、それ以外の言葉を使用したらいけませんよ」と、くぎを刺されてしまっていたのだ。

 困り果てた私は、窮余の策として「日本軍の強制という意味での『集団自決』という表現を思いつき、証人尋問中、それを常用してきた。それは「強制」と「自発的」という矛盾した、まさに「誤解と混乱を招く」言葉だ。私がそのような失態を演じている場面のなかで安仁屋氏は腸が煮えくり返る思いで傍聴していたに違いない、と改めて想像できる。私はいま、担当弁護士の制止を振り切ってでも、安仁屋氏の言う「強制による集団死」という言葉で証言すべきだったと悔恨の念にかられている。次回以降は国側証人(曽野綾子氏)の証言などをみていく。

- 以上、引用元「石原昌家著「沈黙に向き合うー沖縄戦聞き取り47年」P88~P89


bottom of page