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第70回平和祈念資料館問題(3)   部局主導の変更強調/県、上層部の指示示さず

  • 執筆者の写真: 世界版「平和の礎」事務局
    世界版「平和の礎」事務局
  • 9月13日
  • 読了時間: 6分

更新日:9月27日



 こんにちは。世界版平和の礎を提案する会事務局です。

 今回から沖縄戦 沈黙に向き合う より「平和祈念資料館問題」を取り上げます。

 筆者(石原昌家:沖縄国際大学名誉教授、元 沖縄平和の礎刻銘検討委員会座長)は新沖縄県平和祈念資料館の監修委員のひとりとして、当時の微妙な空気を早期に察知し、数々の出来事を時系列で細かく伝えてくれています。

 1999年夏は、日本が「戦争ができる国」へと、国の姿を変えていく法律を相次いで強行採決していった。まさに軌を一つにして沖縄では平和祈念資料館の展示内容を、戦争否定につながる沖縄戦の実相を改ざんしようと県が密かに作業していた。

 社会学が専門の石原先生は、その研究材料をフィールドワークによって積み重ねてきました。本書では筆者が撮影した当時の写真や新聞記事などを毎号ごとに織り交ぜ、渦中のど真ん中にいた一人としてノンフィクションの事の顛末をリアルなジャーナリズムさながらに読者に伝えている。是非、書籍を手に取っていただき、人びとが感性を研ぎ澄ませ、沖縄戦再来の危機に直面させている今日、再び日本国家の犠牲にならないよう、対処していく一助になることを強く願います。

- 以下、引用元「石原昌家著「沈黙に向き合うー沖縄戦聞き取り47年」P144~145


第70回平和祈念資料館問題(3) 

  

部局自動の変更協調/県、上層部の指示示さず


 1982年、高校日本史の文部省による教科書検定で、日本軍の住民殺害の記述が削除された。沖縄戦の真実を抹殺する日本政府に沖縄住民の怒りは大爆発し、怒りの島と化した。それから17年後、稲嶺沖縄県知事は、「反日的ではあってはならない」と事務方に指示した。その後は新聞社に暴露されるまで展示改ざん作業がほぼ全面的に秘密裏に進められていたようだ。沖縄戦研究成果を根本的に覆すというのは、単に事務レベルではなく、背後に大きな力が働いていることは容易に察することができた。11月の監修委員の任期切れを待たずに、新聞社に改ざん作業が暴露されたので、急遽、「事務方の勉強会だった」と県担当部局は言い訳をして、火消しに走り出した。


 第68回から「平和祈念資料館展示問題」を連載している。県政を揺るがすほどの問題として琉球新報、沖縄タイムスの地元2紙が、連日総力を挙げた取材活動を続け、3カ月余(朝夕刊)にわたって、その問題に紙面を大きく割いていった。その取材を終えた記者が、社にタクシーで戻るとき、運転手が「資料館問題の記事をいつも読んでいる。お前ら頑張れよ」と、乗るたびに激励されたという。当時の取材記者松永勝利さんの述懐である。

 沖縄の地元2紙は、沖縄戦体験の住民証言の取材には全力を挙げ、しばし独自に連載を企画してきた。したがって、沖縄戦体験の真実を曲解、歪曲、ねつ造の動きには正義のペンで断固として正していくというのが両紙に共通する報道姿勢である。



■史実の抹殺行為

 第37回で日本政府が高校日本史検定において、日本軍の住民殺害の記述を抹殺したとき、沖縄はヤマト国家に対し、「怒りに燃ゆる島」と化した。在京紙「東京タイムズ」でさえ、1面トップにおいて「沖縄戦史実を抹殺」の大見出しで報じていたことを本連載の写真として紹介したところである。そのとき琉球新報は、すかさず「沖縄戦と継承/教科書から削除された県民虐殺 〈1〉虐殺はあった」と連載を開始したことも述べてきた。その連載から17年後、ヤマト国家ではなく、よもや県民の負託を受けた沖縄県の上層部が「歴史の中で沖縄差別の極致」といもいうべき日本軍の住民虐殺の史実を抹消する行為を冒すとは、と新聞社も県民も受け止めたようだ。

 私自身も「新資料館の展示変更見直し問題を含め、一連の流れを見ると、これまでの沖縄戦の研究成果を県が勝手にゆがめようという意図がうかがえる。事務レベルでできる話でない。沖縄戦に対する認識を根底からくつがえそうとする大きな力が働いているように感じる

」(『沖縄タイムス』1998年8月31日夕刊5面)と指摘していたようだ。連載執筆にあたり沖縄国際大学図書館地下書架で見つけた新聞記事である。後に、講演依頼を受けた大阪の平和資料館「ピースおおさか」で、背後の「大きな力」の情報を得ることになったし、「事務レベルでできる話ではない」というのも私の推察どおりだったといえる資料も伊波洋一県議(当時)が見つけた。それらもこのシリーズ最後で記していく。


■突然の訪問

 琉球新報と同様に沖縄タイムスも1999年8月11日付夕刊の社会面トップ記事で〈開館間近の県平和祈念資料館/展示物無断で変更/監修委 県の対応批判/消えた住民に突きつける旧日本兵の銃〉という見出しでこの問題の第一報を報じている。その記事で私は〈(日本兵から)銃を抜いてしまうと、沖縄戦の史実をゆがめてしまう。これでは沖縄戦の実相を伝える資料館の意味をなさなくなる〉と指摘していたようだ。

 さらに同紙8月12日付1面で〈揺れる沖縄戦の実相伝える資料館〉〈知事が見直し指示/平和資料館の展示内容〉〈わい曲懸念展示やめる/資料提供の久手堅さん〉という見出しのもと、〈平和祈念資料館展示変更問題〉を大きく報じ、社説でも〈「理由」明確にすべき〉と論じている。沖縄の地元2紙が一斉にこの問題を重視する報道を開始した。

 その翌日、13日のことである。

 私の勤務先の大学研究室へ展示資料担当部局課の次長と課長が突然訪ねてきた。お二人ともこれまで親しく会話してきた間柄である。雑然とした研究室の隙間に腰かけてもらったが、開口一番「新聞が報じている資料館の展示については、課内でただ職員同士が勉強していただけのことですよ」ときまり悪そうな表情で、強調されていた。突然の大々的な報道で、大あわてで火消しに回ってこられたという印象だった。

 一監修委員の職場までなぜ報道開始とともに見えられたのか。いま、当時の新聞記事を注意深く読んでみると、結びつく内容が見つかった。「前回の連載で紹介した新聞記事のなかで、日本兵から銃を消した「模型を変更した理由について県平和推進課では『権限を越えているので答えられない』と明言を避けている」というくだりがある。それは図らずも、変更指示は県の「上層部だ」と答えたのも同然である。そこで急きょ、部局課主導で変更を考えたということを強調するためにわざわざ研究室まで足を運ばれたと思えた。


■「私が指示」

 同年8月14日の琉球新報朝刊1面に、「『私が指示』平和祈念資料館の展示物変更で太田文化国際局長次長」という見出しの記事が載った。

 記事には「来年三月に開館する新しい県平和祈念資料館の壕の模型図案が監修委員の承諾を得ぬまま変更されていた問題で、太田守胤文化国際局次長は十三日、琉球新報社の取材に対して、銃を構えて立つ日本兵から銃を外すよう指示したのは次長自身であることを明らかにした。指示した理由について『(銃を構える姿を)こういう形で見せることが本当にいいのかと考えて』と述べ、次長の考えに基づいて模型の図案変更を現場にしたと説明した。県側が模型変更の具体的理由を明らかにしたのはこれが初めて。太田次長は『現在は作業途中。その中で模型の人形を壕の中でどう位置付けるか検討している。最初の段階で日本兵が銃を向けているものとか、銃を持たないものとか、銃を脇に抱えているものとか、その場の展示にふさわしいものをとさまざまな形で検討していた』と記されている。「県の上層部」ではなく、「私が指示」と記者に強調されたようだ。


- 以上、引用元「石原昌家著「沈黙に向き合うー沖縄戦聞き取り47年」P148~P149


次回に続きます。なぜ上層部は戦争の残虐性を薄めようとするのか…

当ブログをお読みいただきありがとうございます。




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