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沖縄平和祈念資料館 沖縄戦と戦後沖縄の本質を知る最重要な史料7点(第87回~第90回)

  • 執筆者の写真: 世界版「平和の礎」事務局
    世界版「平和の礎」事務局
  • 2025年10月31日
  • 読了時間: 12分

更新日:2025年11月19日



 今回は番外編として、新聞記事連載企画第87回~第90回に渡って紹介されている「沖縄戦と戦後沖縄の本質を知る最重要な史料」7点をまとめてご紹介します。著者は「一点でも史料展示から撤去されたら、展示改ざんの始まりだといえるほどの重要史料である」と語っている。

 それは、

である。

- 以下、引用元「石原昌家著「沈黙に向き合うー沖縄戦聞き取り47年」P182~189

 (途中略…)「監修委員だった人の説明を受けなくても、そのことが理解できないといけない。そのような展示の仕方にはなっていない」と手厳しい批判を受けた。(…途中略…)

 監修委員会では、沖縄戦で住民被害の元凶を参観者がたどる史料として、1~7までを展示することになった。今後、資料館の展示改ざんをチェックするために、次世代のためにもその史料名を挙げ、最も重要な箇所を抜き出しておく。これらの史料の一つでも削除されていたら、それは「反日」史料として排除され、第三(第二は第91回で詳述)の史料展示改ざん事件ということになる。それは軍拡・国防族の圧力に屈したか、稲嶺県政のように自発的服従しているかの目安だ。

(以下、ブログ筆者 項目ごとに引用記述)

 (1)「牛島軍司令官の訓示(昭和十九年八月三十一日)」。

訓示は、「第一」から「第七」までの全文を展示してある。紙幅の都合上、第六「地方官民ヲシテ喜ンテ軍ノ作戦ニ寄与シ進テ郷土ヲ防衛スル如ク指導スヘシ」、第七「防諜ニ厳ニ注意スヘシ」のみ引用する。住民を軍の戦力増強に根こそぎ動員することにより、軍事機密を知られるので防諜に注意すべしと敵に機密が漏れないことを命じている。戦場での非国民、スパイ視虐殺の背景を語っている史料である。


「牛島軍司令官の訓示(昭和十九年八月三十一日)」(「防衛庁防衛研究所戦史部所蔵」沖縄県平和祈念資料館総合案内より)
「牛島軍司令官の訓示(昭和十九年八月三十一日)」(「防衛庁防衛研究所戦史部所蔵」沖縄県平和祈念資料館総合案内より)

 (2)「秘密戦ニ関スル書類(報道宣傳防諜等ニ関スル縣民指導要綱 昭和十九年十一月十八日、球一六一六部隊[軍司令部])」の「第一方針 軍官民共生共死ノ一体化ヲ具現」は、軍人同様に軍事機密を知った住民は、軍と共生し、共死するよう指導すべしという恐るべき史料である。住民の集団死が軍の方針として極秘のうちに準備されていたことを裏付けているとともに、凄惨な住民被害をもたらした元凶の史料として誰の目にも明らかである。

 (3)「近衛上奏文(昭和二十年二月十四日)」。元首相近衛文麿が昭和天皇に拝謁し、上奏文(天皇に意見・情勢を具申すること)を呈した。「敗戦ハ遺憾ナカラ最早必死ナリト在候・・・国体護持ノ建前ヨリ最モ憂フルヘキハ敗戦ヨリモ敗戦ニ伴フテ起ルコトアルヘキ共産革命ニ御座候・・・・国体護持ノタチバヨリスレハ、一日モ速ニ戦争終結ノ方途ヲ講スヘキモノナリト確信仕り候・・・・」

 以上は一部の引用だが、沖縄戦と直接的にかかわる以下の部分が含まれていない。「御下問:昭和天皇、御答:近衛文麿、(御下問)もう一度戦果を挙げてからでないと中々話は難しいと思ふ。(御答)そう云う戦果が挙がれば誠に結構と思われますが、そう云う時期が御座いませうか。之も近き将来ならざるべからず。半年、一年先では役に立つまいと思ひます」

 この問答は、沖縄にとって決定的である。昭和天皇が「もう一度戦果を挙げてからでないと」と、近衛の進言を拒絶した翌3月に、日米最後の地上戦に突入したのである。つまり、沖縄戦は天皇制を守る「戦果」をあげる戦闘だった。(途中略)この近衛上奏文の続きといえるのが、初代宮内庁田島道治長官が昭和天皇との対話を書いた「拝謁記要旨」(はいえつきようし)、昭和27(1952)年3月14日の記録である。

 その日、天皇は「私ハ実ハ無条件降伏ハ矢張りいやで、どこいゝ機会を見て早く平和ニ持つて行きたいと念願し、それには一寸こちらが勝つたような時に其時を見付けたいといふ念もあつた」という。

 まさに、1945年2月14日「もう一度戦果を挙げてからでないと」という近衛元首相への返答を、それから7年後、(天皇制存続の交渉を)「一寸こちらが勝ったような時」と、言葉を変えて振り返っている。だが、その「時」こそが、地獄のような沖縄戦だったのである。この「近衛上奏文」は、沖縄戦を語るうえで、絶対に欠かせない特級史料だということは、「拝謁記要旨」が掲載された琉球新報の裏付け記事でも明らかになっている。

1945年2月14日に近衛文麿氏が天皇に意見を伝えた「上奏文」(「沖縄県平和祈念資料館 総合案内」より)
1945年2月14日に近衛文麿氏が天皇に意見を伝えた「上奏文」(「沖縄県平和祈念資料館 総合案内」より)

 (4)「球軍解放 四月九日(1945年)」。その命令綴りには「五、爾今軍人軍属ヲ問ハズ標準語以外ノ使用ヲ禁ズ 沖縄語ヲ以テ談話シアル者ハ間諜トミナシ分ス」とある。いうまでもなく、爾今(ジコン)は今後、間諜はスパイ、処分とは殺害の意味である。「球軍日日命令」五月五日、でもまったく同じ文面の命令を発している。(新『沖縄県史』資料編23沖縄戦日本軍史料、2012年)。

 日本軍部にとって沖縄語は悩ましい問題だった。沖縄で20歳の徴兵業務を開始した12年後の明治四十三(1910)年度『沖縄警備隊区徴募概況』には、「本県ニ於ケル検査ノ難事トスル処ハ、一般ニ普通語ヲ解スル者少ナク、従テ各検査官トモ通弁ヲ要スルニ在リ」(『浦添市史』第5巻、1984年)とある。

 普通語とは標準語のことであり、通弁とは通訳のことだから日本軍部の検査官は標準語を理解できない沖縄県人に通訳者を介して徴兵検査をこなさざるを得ず難事だ、と嘆いていた。軍隊にとって、上意下達[じょういかたつ]の命令を伝達する標準語(共通語)を習得することが必須条件だったので学校教育現場で標準語励行が強要されていった。

 だが、沖縄戦の地上闘下の沖縄県庁の「後方指導挺身隊」の沖縄出身幹部でさえ、県外の日本兵がいないところでは、ウチナーグチ(沖縄語)を使用していたと証言していた。

 1945年4月1日に沖縄本島中部西海岸へ米軍が上陸し、住民を巻き込んだ地上戦闘に突入した軍中枢部としては「軍事秘密漏洩防止」のため、県外の日本兵が理解できない沖縄使用を禁止したのであろう。

 従わないものは日本軍の住民スパイ視虐殺をもたらした史料として沖縄戦研究初期の段階から、発掘した研究者が住民被害の元凶の一つに位置付けていた。

 (5)「国土決戦教令」。沖縄本島上陸後の米軍主力部隊が、首里軍司令部を目指して南下したので、嘉数高台方面で日本軍が迎撃した。両軍の死闘が展開し始めていた4月20日、大本営陸軍部は、『国土決戦教令』(防衛研修所戦史室所蔵)を発令した。敵軍が国土に上陸して決戦場になった時の、戦闘命令である。

 私がその存在を知ったのは、沖縄県平和祈念資料館の開館間際であった。その中身を知るや、皇軍の本性がむきだしで、赤裸々にさらけだしている。開かずの間に入った感がした。長年、私は大学生たちと沖縄各地で沖縄戦戦災実態調査を実施してきた。それにはぼう大な時間とエネルギーを費やしてきた。

 その数年がかりの調査の結果、沖縄戦の教訓は、「軍隊は住民を守らない。それどころか、軍の作戦(保身)のため住民を殺害したり、死に追いやる」という確信をえていた。それを具体的数字や住民証言で断言できるには、学生たちの計り知れない労力が注がれていた。そのような実証的調査に基づいて国体護持の戦闘のむごさを追究してきた。

 日本軍部は、それを次のように発していた。

 『国土決戦教令』の「第二章 将兵ノ覚悟乃戦闘守則」の「第十四 敵ハ住民、婦女、老幼ヲ先頭に立テテ前進シ我ガ戦意ノ消磨ヲ計ルコトアルベシ斯カル場合我ガ同胞ハ己ガ生命ノ長キヲ希ハンヨリハ皇國ノ戦捷ヲ祈念シアルヲ信ジ敵兵殲滅ニ躊躇スベカラズ」と。

 戦意の消磨とは、戦闘意志をそぐことで、戦捷(せんしょう)とは戦争に勝つこと、殲滅は皆殺しのことである。敵が捕らわれの老幼、婦女住民を盾にして、皇軍に攻め込んできたとき、いわば皇国臣民を人間の盾にして攻め込んできたとき、老幼婦女住民は、皇国が勝利することを祈念していることを信じ、敵を全滅させることをためらうなということである。つまり、そのような戦闘時には、住民を死の道連れにする覚悟を持つよう命じていたのである。(途中略)

 第32軍牛島軍司令官は、1945年5月30日、首里決戦を避けて堅固な首里軍司令部から摩文仁南端へ撤退した。首里軍司令部の南側から摩文仁の新司令部壕の北側の南部一帯は、老幼男女住民の一大避難地域になっていた。牛島軍司令官は当然、そのことを熟知していたはずだ。

 つまり、住民を盾にした形で迫りくる米軍との戦闘を長引かせる、国体護持の持久戦を展開した。天皇の厳命のもと、牛島軍司令官は「国土決戦教令」通りに戦闘を指揮したということが、史料で確認できるのだ。

 (6)「久米島部隊指揮官 敵の宣伝ビラ拾得者は銃殺す」の史料は、皇軍の本性を示す貴重な現物展示である。「昭和二十年六月十五日 久米島部隊指揮官 具志川村仲里村村長警防団長殿 達」の「その三」に「敵ガ飛行機其ノ他ヨリスル宣傳『ビラ』散布ノ場合ハ早急ニ之ヲ収拾取纏(とりまと)メ軍當局ニ送付スルコト 妄リ之ヲ拾得私有シ居ル者ハ敵側『スパイ』ト見做シ銃殺ス」とある。

 『久米島の戦争』(徳田球美子、島袋由美子編、なんよう文庫、2010年)の年表によると、この「達」が出た前後の記録で発令の経緯が推察できる。

 「6・13字北原比嘉亀宅に敵兵らしくもの4、5名侵入、比嘉亀を拉致して行く」「6・14北原事件にて各字へ手配の上、警戒をなす。8時ころ山隊長より屋宜巡査と共に打合せのため呼び出しにより出張」「6・15山の隊長より拉致事件に対し両村長、警防団長あてに注意書来る。各部落に対し山より達し並びに注意書来る」

 この記録によると、米軍の斥候兵が久米島へ上陸して、島人を拉致したということで、山中に潜む日本軍の鹿山隊は、住民をとして日本軍の動向を探られていると判断し、「スパイとして銃殺の達し」を発令したようだ。6月28日にはついに米軍が久米島上陸し、島の緊張は極度に高まり、警防団本部も解散した。28日は米軍の久米島占領を意味する米国旗がたてられたので、住民は山中に潜む日本軍鹿山隊と米軍の板挟み状態に置かれた。

 6月27日、安里正二郎郵便局員の虐殺に始まり、29日に北原住民9人虐殺、8月18日仲村渠明勇一家3人虐殺、8月20日朝鮮人の谷川昇一家(妻は久志村[現・名護市]の人)7人惨殺が相次いだ。すべては、6月15日の「達」に始まった。

 (7)天皇メッセージ

 沖縄県平和祈念資料館では、個々人の戦争体験を映像と文字による証言で確認できる。それぞれの体験を局所的と表現するなら、それを裏付ける大局的な史料を第87回の(1)~(6)まででみてきており、その最後が(7)の「天皇メッセージ」である。ところが、これまでみてきた稲嶺県政の展示改ざん事件で7カ月間も監修作業が遅れたため、英文の展示にとどまってしまった(だが、2001年3月、県資料館発行の『沖縄県平和祈念資料館総合案内』には英文と訳文が掲載されていることを参観者のために特記しておきたい)。

 「天皇メッセージ」は、雑誌『世界』(岩波書店刊)の1979年4月号、進藤栄一・筑波大助教授「分割された領土」の論文でその存在が明らかになった。以後、各新聞や国会で大々的にとりあげられた。特に沖縄にとっては、「近衛上奏文」で知る沖縄戦に続き、米軍占領下の沖縄、さらに今日の基地オキナワへ至る痛哭・苦難の歴史の根源を証す衝撃的内容だ。

 1979年4月11日朝刊の琉球新報では1面トップで、「天皇、沖縄の占領継続を希望」という大見出しのもと、「米側公開資料で明るみに/主権残し貸与の形で/内外の脅威をけん制/『講和条約』にも盛り込まれる」/進藤筑波大助教授が調査」の見出しがつづいている。

 <沖縄の分離は米国が、対ソ封じ込めの恒久基地を建設するために強行したものだが、天皇陛下が沖縄をはじめ琉球の他の諸島を米国が軍事占領し続けることを希望していた>が、リード記事の一部である。

 記事の本文では、宮内庁御用掛の寺崎英成氏が天皇の意向を伝えた内容である「マッカーサー元帥のための覚え書」(1947年9月20日付)が以下のように引用されている。

 〈寺崎が述べるに天皇は、アメリカが沖縄をはじめ琉球の他の諸島を軍事占領し続けることを希望している。天皇の意見によると、その占領はアメリカの利益になるし、日本を守ることにもなる。天皇が思うにそうした政策は、日本国民がロシアの脅威を恐れているばかりでなく、左右両翼の集団が台頭し、ロシアが”事件”を引き起こし、それを口実に日本内政に干渉してくる事態をも恐れているが故に、国民の広範な承認をかち取ることができるだろう〉〈天皇がさらに思うに、アメリカによる沖縄(と要請があり次第他の諸島しょ)の軍事占領は、日本に主権を残存させた形で、長期の一二十五から五十年ないしはそれ以上の―貸与(リース)をするという擬制のうえになされるべきである。天皇によれば、この占領方式はアメリカが琉球列島に恒久的意図を持たないことを日本国民に納得させることになるだろうし、それによって他の諸国、特にソビエト・ロシアと中国が同様の権利を要求するのを差し止めることになるだろう〉

 この「天皇メッセージ」第87回の「近衛上奏文」と合わせて読むと、天皇は「一日も速やかに戦争終結の方途を講ずべき」という近衛元首相の進言は拒んだが、「最も憂ふるべきは、敗戦よりも敗戦に伴ふて起こることあるべき共産革命なり」という進言は、戦後とりいれていることが分かる。

 現在、戦争体験の記録は新聞社や各市町村字史などによっても集積されているが、それを裏付ける大局的資料を抜きにしては、真の体験継承にはならないというのが、以上の展示史料のコンセプトである。

宮城悦二郎氏提供 ― 沖縄県平和祈念資料館総合案内より
宮城悦二郎氏提供 ― 沖縄県平和祈念資料館総合案内より

 「戦闘参加者概況表」は沖縄県の援護課が作成した形だが、日本政府が沖縄戦体験をどのように把握しているかという事実上の公式記録であり、沖縄住民にとって、肝要な史料である。

日本政府は、1957~58年段階までには、住民が体験した沖縄戦の全体像を把握していた。それを証明しているのが援護法を住民へ適用拡大するため、一般住民を戦闘参加者と認定するために作成した「戦闘参加者概況表」である。住民がどのように戦闘協力したかと20の事例にぐんと住民の係りを分類している。その中には「スパイ嫌疑による斬殺」をあげ、しかも「日本によるもの」と「米軍によるもの」に分け、その具体事例まであげている。スパイ嫌疑で斬殺された住民に日本軍の戦闘参加者という身分を付与し、靖国神社に殉国死したものとして合祀し、その死を讃えている。日本政府による沖縄戦体験の捏造そのものだ。それは、昭和天皇が米軍の沖縄占領の継続を希望することを米国に伝えた「天皇メッセージ」から10年経った1957年以後、その捏造は今日まで継続している。

 

- 以上、引用元「石原昌家著「沈黙に向き合うー沖縄戦聞き取り47年」P182~P189


当ブログをお読みいただきありがとうございます。




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