平和の礎(6)名簿確認 壮大な作業/誤記防止へ全員新聞掲載
- 世界版「平和の礎」事務局

- 2025年7月26日
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- 以下、引用元「石原昌家著「沈黙に向き合うー沖縄戦聞き取り47年」P136~P137
世界の戦争史のなかにも前例がないと思われる一つの戦争・戦場における全戦没者の氏名を刻銘するということは、遺体・遺骨の代替えをも意味する。したがって遺骨を収骨できなかった遺族にとっても、その名前を確認することによって本人に出会えたようにも思える。当然、戦没者の確認作業は正確でなければならないが、全市町村の協力なしには不可能である。筆者は、大田昌秀知事に直接届くように親展の手紙で、これまでの援護法関係の死没者名簿を基礎に新たに各市町村で調査する必要性を訴えた。さらに刻銘の前に、新聞で刻銘予定者名簿を全戸配布して、各家庭で確認することが絶対に必要であることも詳細に説明した。
(途中略)
■知事への要望書
戦没者名を石板へ刻銘するにあたり、最大の課題は県出身の刻銘予定者の最終チェック方法であった。その前に全戦没者調査へ至る経過について、私の知事宛要望書で追記しておきたい。平和の礎建設の総責任者の知事公室長に直接全戸(全数)調査を要請する前に、1993年2月1日付で「沖縄国際平和創造の杜(仮称)構想調査委員会委員長」の肩書で、大田昌秀沖縄県知事に要望書を送ってあった。
1992年12月16日付「琉球新報」朝刊で、「平和の礎建設委員会」が発足し、すでに「戦没者名簿は県出身者の整理を行いながら、他府県にも名簿の提供を依頼しており、大方届いている。米国分についてもほとんど入手している」と報じていた。その新聞記事を読んで、私は非常に焦ったことは鮮明に記憶している。
そこで、知事に沖縄県全域の戦没者名の調査の必要性を個別具体的に挙げていき、「県民がいままでの少なくとも住民に関する戦没者の公式記録の不備を熟知しており、新たな調査なしで戦没者を刻銘することには大きな異議を唱えることが予想されます。以上のことから鑑みて、これまでの手持ちの戦没者氏名に加えて、早急に各市町村単位で少なくとも戦没者名の確定作業を計画して頂きたいと思います」「戦没者名だけに限定した調査であれば、各集落の老人会・婦人会などの協力を得て、短期間に全県下の調査が可能だと思えます。沖縄を世界平和の発信地にするという県知事の製作は、県民をはじめとする多くのひとびとの共感を呼んでおります。その政策遂行のひととして、この住民の戦没者名調査を戦争終結50年に向けての県民運動として展開すれば、その過程において沖縄県民の平和思想が21世紀にむけて、さらに強固なものとして構築されていく可能性を秘めていると思います。この『平和の礎』建設にあたって、是非とも住民の戦没者名簿調査が各市町村各字単位で可能になるよう関係部局へ指示して下さるようお願い申し上げます」と結んでいた。
この要望書は沖縄戦研究者でもある知事が、調査を実施しないで刻銘した場合、住民被害の実相を不正確なまま固定化することになる、というメッセージでもあった。
■名簿作成の経過
歴史的一大事業の全戦没者名簿作成は、各市町村でいかなる具体的作業をたどったのか。刻銘検討委員会とは別立ての作業だった。いま、手元の沖縄県と名護市の資料でその概略をみるだけでも関係部局やボランティアのみなさんが注いだ壮大な労力を想像し、改めて頭がさがる。
まず、戦傷病者戦没者遺族等援護法の対象者名簿を基礎資料にして、その経緯は以下の通りだった。
(1)市町村職員対象の全戦没者調査の説明会(1993年10月26日)、
(2)県平和推進課からの援護法対象者名簿の整理点検(93年10月27日から11月25日)、
(3)調査員への全戦没者調査票の記入方法についての説明会(93年11月26日)、
(4)全戦没者調査作業(93年11月26日~94年3月18日)、
(5)名護市広報「市民のひろば」、各字公民館のマイク放送で戦没者名簿の縦覧の呼びかけ、
(6)第1回各字公民館、各支所、民生課、県庁での戦没者名簿縦覧(94年7月1日~7月20日)、
(7)第2回各字公民館、各支所、民生課、県庁での戦没者名簿縦覧(94年11月28日~12月5日)、
(8)第3回各字公民館、各支所、民生課、県庁、地元新聞紙上での戦没者名簿縦覧(95年1月16日~1月22日)
(以上は、戦後50周年記念名護市戦没者名簿『未来への誓い』1996年3月、名護市史編さん室に依った)。
この経緯のなかで(8)の「地元新聞紙上での戦没者名簿縦覧」こそが、私にとっては最後の大仕事だった。県の資料によると、1994年3月で全数調査の最終総括が行われ、95年6月23日の除幕に向け、同年2月までに石板への刻銘作業が行われる予定だった。
■家族の確認
沖縄県出身14万7110人(1995年)を刻銘するにあたり、地域ごとでの名簿縦覧だけでは、誤記が必ず発生するという確信が私にはあった。
第35回では『浦添市史第五巻』の発刊を伝える琉球新報(1984年3月25日)の写真を載せてある。比嘉昇市長(当時)が調査途中から注目を集め、全国で紹介された浦添前字・全戸の沖縄戦戦災調査の成果なども記者に堂々と発表していた。
私は、全数調査の結果について、「この資料を本巻掲載にあたり、市教育委員会では一九八三年四月十一日の浦添市事務連絡員会議で各自治会長に最終的点検を依頼し、数カ所の訂正を行った」と、注記をつけてあった。
ところが、なんと比嘉昇市長家に誤記があり、私は市長に平謝りをして、訂正表をつくるという失敗を経験していた。したがって、刻銘作業の前に各家族が確認可能な新聞紙上での戦没者名簿縦覧は絶対必要不可欠という確信をもっていた。紆余曲折を経てその新聞掲載が実現したとき、心底ホッとした。
- 以上、引用元「石原昌家著「沈黙に向き合うー沖縄戦聞き取り47年」P136~P137
次回、「平和の礎(7)親展で知事決断迫る/全戦没者掲載へ予算確保 」に続く。


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