「平和の礎」(4) 刻銘へ全戸調査訴え/ゼミ実績示し県を説得
- 世界版「平和の礎」事務局

- 2025年7月19日
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更新日:2025年7月23日
- 以下、引用元「石原昌家著「沈黙に向き合うー沖縄戦聞き取り47年」P132~P133
政府は軍人軍属の戦争死者名は把握しているが、赤ちゃんを含む住民の戦争死者名を調査していない。戦争被害の補償請求されることを恐れ、全戸調査をする意志は全くないようだ。筆者とゼミ学生たちは、政府がやるべき戦争被害調査を1977年から93年にかけて取り組んできたのである。戦死者数の把握にはじまって、93年には戦争死没者名簿を集落の古老からの聞き取りのもと、2集落を2カ月ほどの調査でほぼ完成できた。それでもって県に全戸調査を説得した。
(途中略)
第61回目までは、私が刻銘検討委員会の座長ということで、批判・非難を浴びることになったこと。それに対してその意味・意義について説明してきたことなどを述べてきたが、今回からは、歴史的一大事業となった全戦没者の刻銘にいたるには、どのような困難が待ち受けていたかを述べていきたい。それは沖縄県の総責任者だった高山朝光知事公室長はじめ陣頭指揮をとった松本淳、比嘉博、新垣義三、各氏の県庁OBの証言も得て、詳らかにしていきたい。(詳細は「沖縄『平和の礎』はいかにして創られたか」高文研、2022年を参考にされたし)
■沖縄戦の真実
沖縄戦の全戦没者名簿作成作業としては、第22回「平和の礎へ」で触れてきたとおり、「沖縄戦を考える会」として大学生などを中心にしながら糸満市国吉集落で1977年6月19日に予備的に戦災調査を開始していた。
以後、浦添市全域をはじめ各地で家族・集落単位で沖縄国際大学文学部社会学科・石原ゼミの学生たちと戦災実態調査を実施してきた。そのとき沖縄戦では日本軍が戸籍簿や土地台帳などの焼却命令を沖縄全域に発していたので役場吏員が直接焼却したり(伊芸徳一氏が中頭地方事務所長として命令を伝えたと証言)、空爆劇で焼失したりしていたことを知った。
そこで戦後、戸籍簿を復活させる際、戦争死没者の名前が家族から漏れたりしていることを知ったし、一家全滅家族が戸籍簿を復活させていないので、この世に存在していなかったことになっていること、避難壕内で生まれた子が名前も付けられずにまもなく死亡していることなども知った。
このような調査を1979年から社会学実習・ゼミナール学生たちと各地で調査してきた。それは全国紙をはじめ、地元紙、本土や沖縄のテレビがかなり報じてきた。それで沖縄県が全戦没者の刻銘計画をたてたとき、当然のように私が「刻銘検討委員会」の座長になるよう、大田昌秀知事の支持を受けたであろう県庁職員が大学の研究室を訪れた。
私は、沖縄全域で全戸調査を実施する必要性、そして戸籍簿から漏れている戦死者や名前もつけられていない子や一家全滅で家族全員の名前を確認できない場合は、「だれそれの子」という形でも、死没したひとの名前を刻まないと、沖縄戦の真実をゆがめてしまうことになることを強調した。したがって、全戸調査を実施することが、座長を引き受ける絶対条件だということを伝えた。そのとき、「委員会を立ち上げたとき、そのことを決定すれば、県は実行することになるでしょう」という言質を得た。それで、私はその座長を引き受けることにした。
■公室長と面会
ところが、同じく刻銘検討委員を予定しているひとに、私が伝えた全戸調査が可能かと伺ったら、「そのようなぼう大な調査は、3~4年以上はかかるといわれた」と、私のもとへ再度その職員が訪れた。私は「沖縄県が1987年海邦国体を開催するにあたり、プロジェクトチームを結成して取り組んできた実績がある。日本国家がおこした戦争で、沖縄は未曾有の被害をうけたのだから、本来なら日本政府が全家族の被災調査をすべきだが、その意志はないようだ。だから、海邦国体にならってプロジェクトチームを結成してでも、全戸調査に取り組むべき事柄だ」と説得した。すると、「そのような話はこの平和の礎建設の総責任者の知事公室長に直接話してください」ということになった。そこで、私は直接県庁で高山朝光知事公室長と面会することになった。1994年3月8日付の私のメモには「戦災調査を直訴」とあるので、そのとき全戸調査が絶対に必要だということを訴えている。
■志多伯(したはく)・久手堅(くでけん)調査
1992年度の社会学実習(石原ゼミ)では、同年9月から10月にかけて、東風平町(当時)字志多伯と知念村(当時)字久手堅の戦災実態調査を実施している。これまでは、戦災実態調査において、人や家畜などの被害を数で把握することにしていたが、調査対象地域が2カ所だったので、戦死者名簿を作成することにした。『東風平町志多伯・知念村久手堅の比較調査ー戦前・戦中・戦後の集落変遷ー』という調査報告書(榊原雅樹編集責任者、表紙デザイン玉城千浩、ゼミ長大城朝義)の発行日は、1993年3月15日となっている。私は、この報告書の原稿を裏付け資料として、高山朝光知事公室長に全戸調査ができることを力説した。この大城朝義ゼミ長率いる92年度の調査報告書は、全戸調査を実現させる決め手となったといっても過言ではない。このように「刻銘検討委員会」がスタートする前に、私は県に全戸調査するよう全力を傾けて説得していった。
以上、引用元「石原昌家著「沈黙に向き合うー沖縄戦聞き取り47年」P132~P133
次回、『平和の礎(5)外国人刻銘へ交渉/名簿抽出に時間要す』に続く。


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