平和の礎(7)親展で知事決断迫る/全戦没者掲載へ予算確保
- 世界版「平和の礎」事務局
- 7月30日
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- 以下、引用元「石原昌家著「沈黙に向き合うー沖縄戦聞き取り47年」P138~P139
私は学生たちと沖縄戦戦災実態調査を行うことで初めて知った事柄が多々あったので、関係部局の最終方針をさしおいて直接知事に要望せざるを得なかった。そこで新聞掲載に至った史上空前絶後と思われる新聞紙面作成の経緯を私の「要望書」コピーと記憶をもとに再現したい。
■知事への要望
1994年10月24日付けで私は沖縄県知事選直前の再選をめざす大田昌秀知事宛てに私信を送ってある。「親展」文書によって知事本人に直接届くようにした。私信の内容は、この4年間の知事の平和行政を讃えたうえで、「このような世界史にも残り、国際平和の発信地として大きなインパクトを与えることになるはずの『平和の礎』建設の最後の仕上げ段階での問題点を申し上げねばならないと思い、思い切っておたよりすることにしました。超多忙な知事のお時間を割いてでも、この手紙を是非お読みいただきたく、このような形で私信を送らせていただきました。是非とも最後までお目通しくださるようお願い申し上げます」と書き出して、いくつかの報告事項を書いている。
しかし、本題は現在進行中の市町村ごとに戦没者名簿の閲覧をさせているが、関係者全員がそれを確認することは物理的に不可能なので、それでもって刻銘したら必ず混乱が予想される。
その解決法として是非新聞社に情報提供の形で戦没者名簿を掲載させ、県民全体でその調査結果をそれぞれが検証することが絶対に必要であることを、私が『浦添市史』で比嘉昇市長家の誤記事例を念頭において、強く要望したのである。それで知事は、関係部局に名簿の新聞掲載を指示したと思われる。
というのは、それから間もなく私は、数人の県幹部の会合の席に呼ばれた。そこでの結論は、県はぼう大な戦没者名簿の新聞掲載の予算を組んでないので、琉球新報社と沖縄タイムス社へ検討委員会委員長として、全戦没者名簿を記事として掲載するよう要請してほしいということだった。
■新聞社への要望
県幹部の依頼をうけ、1994年11月26日付で、私は琉球新報社三木健編集局長と沖縄タイムス社大山哲編集局長宛てにまったく同じ文面で、要請書を送ってある。文面は当日の紙面で県の戦没者全数調査の結果が公表され、それを市町村で再縦覧させるとのことだが、石板への刻銘に先立って地元新聞社として是非、新聞記事として沖縄県民の全戦没者名を報道していただきたいと思い、早急にご検討くださるようお願いいたします。という前置きで「県当局は、最縦覧の際、各字単位の公民館あたりで縦覧させる予定のようですが、まず、一番見ていただきたい方は高齢で、もはや公民館まで足を運べない状態か、寝たきりの状況にある可能性がたかい。また、出身地から転住しているお年寄りが多いので、出身地の公民館まで足を運んで確認することはほとんど期待できない。これらの点を考えただけでも、各家、字ごとの戦没者氏名を新聞記事として掲載して頂くのは、読者のニーズに応えることにもなる」ということをメインにして、戦前戦中、新聞が国民を戦争へ駆り立てていった反省も込めて、記事として新聞での名簿掲載することを強く要請した。
■知事の大英断を
この強い私の要請にたいして、新聞社から電話があった。それを受けて私は、即刻、大きな太文字で、刻銘予定者名簿の新聞掲載に費用捻出の「大田知事の大英断を」と、1994年12月3日付で「親展」の手紙を速達で出した。石板への刻銘作業開始の時間が迫っていた。
知事への二度目の親展手紙は、琉球新報社、沖縄タイムス社の両編集局長宛ての手紙の写しも同封し、それを読んでいただいたことを前提にして、その手紙の返事を新聞社から電話でいただいたこと、手紙の趣旨に沿って新聞掲載を検討したところ数千万円もかかることが分かり、財政逼迫している新聞社の現状では県当局の協力を仰ぎたいということ、しかし、県の担当局の予算も足りないことを新聞社に私が伝えたところ、県当局の上部の英断を仰ぐ以外には局面の打開が図れないといわれたという内容だった。
最後に「私は、これまで調査してきた経験上、現段階における最善の方法は、やはり新聞掲載によって寝たきりの年配者でも戦死者名簿をチェック可能にすることだと確信しております」「(役所や公民館での名簿閲覧方法という)、このような形で県民の目を通したからということで刻銘作業に入ることは、写しの手紙で説明してあるとおり、とても危険です。新聞に沖縄県民だけの名簿だけでも掲載しておけば、必ず訂正箇所が出てくるでしょうし、そのうえで刻銘作業にはいれば、たとえ間違い箇所がでてきても、それは県民の了解を得られることだと思います」と県への批判は絶対に来ないであろう、との私の予測も書き添えた。
そのうえ、「『平和の礎』という世界にも例のない歴史的大事業であればこそ、数千万円のお金が足りないということで、最も基礎的な作業部分で悔いを残すことがあってはいけない、なんとも地団駄踏むような思いにかられまして、再度不躾なお手紙を差し上げることにいたしました。大田知事の大英断を再度お願い申し上げます。『平和の礎』刻銘検討委員会の委員長として」と結んだ。
この知事への「親展」の手紙から1ヵ月半後、前回写真のとおりの全戦没者刻銘予定者名簿が記事として掲載された。私の予想通り、除幕式後に刻銘の間違いが見つかっても、県への批判は生じなかった。
- 以上、引用元「石原昌家著「沈黙に向き合うー沖縄戦聞き取り47年」P138~P139
次回、「平和の礎(8)首相前に侵略、戦争批判/朝鮮半島南北代表「村山談話」に影響か 」に続く。
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