平和の礎(9)慰霊・追悼、記録の場に/戦争悲惨さ伝え、平和希求
- 世界版「平和の礎」事務局
- 8月13日
- 読了時間: 4分
- 以下、引用元「石原昌家著「沈黙に向き合うー沖縄戦聞き取り47年」P142~P143
第66回で記した、平和の礎の除幕式典における朝鮮・韓国の代表あいさつ文は、帝国日本に侵略・占領されたアジア諸国の人たちの思いも凝縮していると言える内容だった。
(途中略…)
韓国のジョン・テギョンさんは「世界平和と和睦の道へ」、朝鮮のキム・ソスプさんは「アジアと世界の平和実現への決意」、「村山談話」では「未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないこと」と、それぞれが正しい歴史認識の下に、未来に向けた平和を志向している。
■遺族の思い
除幕直後のテレビや新聞のニュース、人々の話を通して知る平和の礎に対する遺族の思いは、わたしの想像をはるかにこえていた。
<事例1> 当日の夕方のニュースで、テレビインタビューを受けているひとは、なんと筆者が1971年に沖縄県史に収録のため聞き取りした近所のかただった。「わたしの父は、わたしが沖縄で結婚するまえにフィリピンに出稼ぎにいき、夫に一度も会うことなく、そこで戦死した。夫は沖縄戦で家族と一緒に避難しているとき、島尻で被弾死した。それぞれ生前顔を合わせたことがなかった夫と実父が並んで礎に刻まれているのみつけた。」それで「ここで初めて出会えたのだね」と、二人の名前をなでて感極まっている映像が流れていた。
<事例2> 近所の少年時代から知る沖縄戦当時9歳だった女性が「母親らと妹を背負って島尻の戦場をさまよっているうちに背中の妹は弾にあたって死んでしまったが、しばらく妹が亡くなっているのも知らずに背負いつづけ、そのうち異変にきづいたが、その後も遺体を背負ったまま逃げまどっていた。それからだいぶたった後、母親が背中の妹をどこかに埋めてきた。戦後、妹の遺骨を探し求めたが、見つからないままに50年たった。その間、妹が死んだ6月になると毎年精神的に落ち着かなくなる。あなたは戦争体験の聞き取りをしているようだから、わたしの戦争の話を聞いてね」と頼まれていた。それで、「平和の礎」も除幕したので、聞き取りしようと連絡したら、「平和の礎で妹の名前をみつけたので、遺骨に出会えた気持ちになった。もう精神的に落ち着いたから、もう話を聞かなくていいよ」、といわれた。しかし、しばらくして、あらためて聞き取りをした。
<事例3> 空手道場主でもある大学同僚の話である。その弟子たちが米国で沖縄空手道場を開いているが、ときおり沖縄へ研修にやってきた。平和の礎が除幕した年にも米国から研修にきた米国人空手家のひとりには5人のおじがいた。第二次世界大戦時、2人はドイツ戦線へ、3人が太平洋戦線へ出征した。4人は復員したが、ひとりだけが沖縄戦で戦死した。戦後生まれの空手家は、親族がひとりのおじの死を嘆き悲しんでいたので、たいへん気になっていた。そこで「平和の礎」には、アメリカ兵の戦死者の名前を刻銘しているということを聞き、もしやと思いそこへ連れていってもらった。アルファベット順に刻銘されているのですぐにおじの名前を確認できた。その瞬間、写真でしかみたこともないおじに、この沖縄の地で出会えたような気持ちがわき、感動で胸がいっぱいになった。名前を見ていると、抱きしめて慰めたい気持ちにまで襲われた、という。
■碑のもつ機能
除幕後、遺族や関係者の平和の礎への向かい方接したら、礎には三つの機能が付与されていると思えた。「機能1」は慰霊・鎮魂である。思いもよらない場面を目撃した。刻銘碑の前で、新しい墓ができたときのように、重箱を供え、「墓祝いの歌」を三線で奏でているひとたちがいた。また、重箱や供花を供え、清明祭で墓前に手を合わせるような場面も当初からよく見かける姿である。
「機能2」は、追悼・追想である。関係者の名前をなぞって、涙しながら故人を偲ぶ光景は一般的である。
「機能3」は記憶を継承した記録碑としての役割である。わたしたちの一家(5人)と伯父一家(7人)は奇しくもひとりの戦争死没者も出していない。しかし、わたしの楊姓中宗家(現在の跡目は筆者)の先代跡目が中国戦線で戦死していた。その名前の確認のため、除幕して半年後の正月3日、わたしの父を夫婦で平和の礎に案内した。ところが、その先代跡目の名前を見つけた父は「このひとだ」を指さして、名前をなぞることもなく実にたんたんと息子夫婦に説明していた。その瞬間、将来刻銘されているひとと直接的に接していないひとだけになると、ひとの存在を表す名前によって戦争の悲惨さを伝え、平和を希求する場という役割が大きくなるのだろうと思えた。
本項に関しては、石原昌家/新垣尚子「戦没者刻銘碑『平和の礎』の機能と役割」(『南島文化』<沖縄国際大学南島文化研究所紀要 第一八号>)に詳述してある。
- 以上、引用元「石原昌家著「沈黙に向き合うー沖縄戦聞き取り47年」P142~P143
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