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 「平和の礎(2)(3)」

  • sekaibanheiwanoish
  • 7月2日
  • 読了時間: 6分

 本記事は、石原昌家先生(沖縄国際大学名誉教授/NPO法人世界版「平和の礎」を提案する会・共同理事長)の著書「沈黙に向き合うー沖縄戦聞き取り47年」からの引用を元に、『沖縄戦体験を「常識を疑う」社会学的視点で解く』をテーマにお届けします。






- 以下、引用元「石原昌家著「沈黙に向き合うー沖縄戦聞き取り47年」P128~P131 第60回 平和の礎(2)平和の礎(3)」-



■続「石原批判」

 1995年6月23日、「平和の礎」除幕前に執筆した「戦没者刻銘碑『平和の礎』が意味するもの」(季刊 戦争責任研究 第8号 1995年夏季号)は、複数の知名士からうけたわたしへの批判・非難を若い世代であるゼミ学生たちとも議論を深めて「説明」する形をとった論考である。数日前、「慰霊の日」に関連して若い新聞記者から「平和の礎」の今後についても電話インタビューを受けたが、それについてもすでにこの論考に書いてあった。

 「『平和の礎』は、全戦没者の追悼の意味が込められた記念碑として出発しても、後世においては戦争の冷厳なる事実を伝える『記録碑』としての意味合いを強めていくことになるはずである」と、その行く末を展望していた。

 この論考で「平和の礎」を批判していた研究者をもっとも激怒させたのは、次の件だった。「このような観点に立つならば、例えばドイツでいえばアドルフ・ヒトラーとアンネ・フランクらも一堂に刻銘しなければ、戦争の史実を後世に正しく伝えることにはならない。それはいうまでもなく、ヒトラーとアンネを一緒にしてその死を悼むという意味ではない」


■連動の必要性

 ここでヒトラーとアンネの名前を引き合いに出したのは、「平和の礎」は、戦争の加害者・被害者の区別なく戦場そのものを再現するものだということを強調するためであった。と、同時にその刻銘碑と隣接した資料館(平和博物館)で、戦争の発生原因、経過、加害者と被害者を明確に理解できるようにすることは当然のことと考えていた。だから、それについては以下のように述べている。

 「そこで特に強調しておかなければならないことは、この『平和の礎』は『平和博物館(=平和資料館)』と連動させなければならない、ということである。なぜなら、『平和の礎』の戦没者名は、戦死地域別に刻銘することができなかったので、その氏名群だけでは日本の侵略戦争の足跡を知ることができない。それで『平和博物館』では、15年戦争の内実が詳細に展開され、戦争がなぜ発生したのか、戦争指導者と民衆、戦時における加害者と被害者の関係などが解明されなければならない」ことを強調していた。(以下略)

 

■未来志向への批判

(途中略)「戦後50年を迎えるにあたり、ドイツではナチスドイツの加害者側の親や子や孫の間で、『なぜあのようなホロコーストが起きたのか』『その責任の所在をめぐって』、対話が始まっている。

 そして、さらに、『恩讐を越えて』、加害者側ナチスの子孫と被害者側ユダヤの人々の子孫との対話も始まっている。それは、相当な精神的苦痛を超克しながらの対話であることはテレビ画面を通しても伝わってきた。

 本来なら、日本でもそのような対話が生まれていなければならない。台湾、韓国・朝鮮、中国をはじめ、東南アジア、ミクロネシアなど各地における旧日本軍による被害者ならびにその子孫と加害者日本人とその子孫との正面からの対話が交わされていなければならない」と、当時としては思い切った提案をした。私の原稿は、未来を背負う若い世代の声を代弁しているつもりでもあった。

 しかし、沖縄戦で日本兵の蛮行を見聞きしてきた沖縄戦研究者には、「恩讐を越えて」という言葉を容易に受け入れることはできず、強く反発された(私自身は沖縄戦を体験していいない)。

 しかし、「平和の礎」の除幕前から沖縄住民に多大な被害をもたらした第32軍牛島満軍司令官の孫が沖縄戦研究者らと対話を交わしつつあったので、その兆しが芽生えつつあった。

 実際、除幕時には日本軍と死闘を繰り返したアメリカ軍のバックナー中将最高指揮官が戦死し、その娘が「平和の礎」を訪れていた。刻銘版真下の地面にそっと置いた花かごに、長いリボンをつけ父の刻銘位置まで、リボンを引っ張り、父の名前の前にガムテープでそのリボンを留め、「娘が父の追悼に来ましたよ」という無言のメッセージをみつけた。

 戦争では勝者であっても敗者同様、遺族にとっては悲しみしか残らないことを如実に示していた。と同時に「平和の礎」は、それぞれの子孫の間で「対話」が生まれる場所を提供することを除幕前から予感はさせていたが、その実現可能性がみえていたのである。


■遺族感情を想定

 学童疎開や戦時引揚者の船舶が撃沈されたいわゆる「戦時遭難船舶」の遺族は、当初船舶ごとに刻銘するよう要望していた。だが、家族・出身地ごとに刻銘してあるので、いまだ収骨できず海底深く眠っている人たちが、やっと家族の元に戻ってくる、と除幕前から遺族は精神的癒しをえることになった。「平和の礎」への懸念にたいしては、1995年6月23日の除幕前に以下のように書いておいた。「『平和の礎』は沖縄が国際平和の発信地として、全世界に平和をアピールするものとして計画されている。それはまったく新しい試みのため、それについて違和感を覚え、さまざまな意見がでてくるのは必然的な成り行きですらある。そのひとつは、加害者・被害者の氏名を同一場所に刻み、全ての戦没者を追悼するということに対する異論である。それは、戦争責任の所在を明確にせず、戦争に対する反省・総括がいまだなされていない日本の現状を固定化することになってしまうという危機感の表れでもあろう。また、それは戦争で受けた精神的・肉体的傷が、体験者本人やその遺族のかたがたにも生々しく残っていることを示しており、多くの議論・疑問が沸きあがってくるのは当然であろう」既述のとおり、それらの疑問には資料での学習が欠かせない。

 「『平和の礎』は、沖縄の『ぬちどぅ宝(命こそ宝)』と『共生』の思想から生まれたものであり、21世紀へむけて、戦争体験継承の新しい発想・方法が構築されていく大きなきっかけになるものである。人類が滅亡の淵に立たされている核時代であればこそ、思想信条を異にした人たちが共生・共存できるような普遍的な新しい平和思想、新しい価値観を国際社会に提示していけるものと位置づけることができる」。以上が、将来世代の学生たちと議論しあい共通認識した内容であり、それを除幕前に表明してあった。


 

 -引用ここまで-

 

 戦争によるショックは人々を感性的な衝動に駆り立てることは想像に容易い。戦場での凄惨・悲惨な現場を奇跡的に潜り抜けて生き残った先人たちは一様に「戦争の愚かさ」を説く。元日本兵の名前を刻銘することに猛烈に抗議していた人、米軍の猛爆撃で被爆死した遺族など、誰一人米英軍兵士の名前を刻銘することに反対する人はいなかった。それは戦争を拒絶し、平和を願う心からだ。生き残った体験者は当事者として誰よりもその想いが強い。そして辛い想いを人生を通して背負ってきた。

 戦争を知らない世代は資料館で戦争がなぜ起きたか、経緯をしり、なぜ戦死したのか、学習しなければいけない。戦争をしてはいけない。

本当に大切なことはなにか。

命の有難さ、自然と人々が共生していくこと。それを世界に広げていくこと。


続く)


 

 以上、お読みいただきありがとうございました。 事務局K

 
 
 

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